現代の空手の形はほぼ形骸化している

江戸時代初期、古来から伝わる剣術のある流派は頭上から刀を腹部まで振り下ろす素振りのみを稽古とし、日に何千回と同じ動作を繰り返していたと言います。他流派では様々なバリエーションの技を取り入れた実践の木刀稽古を行う中、その流派は粛々と地味に素振りの形稽古を繰り返していたといいます。他流試合での強さは圧倒的で、試合を申し込んだ人間はことごとく来ると分かっている、頭上から振り下ろされる剣撃の餌食になりました。
一つの挙動、技を徹底的に探求して本質を極めるという姿勢は現代に残る形によく現れています。

形稽古の本質は決められた挙動、決められた動き、決められた相手からの攻撃からいかに最小限の力で、相手に気づかれずに無駄なく自然に相手を制すかの練習です。決まり切った稽古の中に実践の要素はありませんが、実戦で使えるレベルまで技を練り込む必要があります。相手に気づかれたとしても、相手の体が反応できずに技が決まってしまうレベルまで体の内面と外面両方を膨大な反復練習によって練り上げなければならないのです。


黒田鉄山師範による抜刀。形の研鑚によって卓越した無駄のない身体操作で技を繰り出す。

反復練習は様々な気づきをもたらしてくれます。技の技術的な部分のみならず、敵と対する場合の自分の心のあり方や、すべての技の挙動を隠す無の境地など実戦では到底気づかない体の使い方や考え方が思い浮かんで来るのです。

現代の空手の形は、沖縄本来の空手の技術が口伝によって秘匿にされ正しく本土に伝承していないとはいえ、形は形骸化していかに力強く美しく見せるかということに力を注いでいます。突き一つとっても体の使い方はある程度体系化されてはいますが、その技術はほとんどの場合筋力に頼ったものです。

現代の形の試合を見ていればどういう形が現代の空手が求めているかということは一目瞭然です。力強く、キレがある見栄えがする形がどういうわけか受け入れられています。

現代の空手の形は本来の型の修練法からは逸脱してダイナミックな動きに終始傾倒しています。現代伝わっている空手の形は元を糺せばもっと自然な動きに近いはずです。沖縄に伝承した中国武術の動きをみればその一端が伺えます。

型の本質は先ほどもお話しした通り、決められた挙動、決められた動き、決められた相手からの攻撃からいかに最小限の力で、相手に気づかれずに無駄なく自然に相手を制すかの練習です。現代の形が少なくとも必要異常にに筋力に頼らざるを得ない不自然な動きになってしまい形稽古の原則から外れているのだとすれば、現代伝わっている形の技術は実戦で使えるかどうかも含めて疑わなければなりません。

しかし、本土に空手が持ち込まれて100余年たった今でも4大流派の形は変わることなくそのまま残ってます。形の解釈の多少の変化はあるものの本質的には何も変わらずに、武術の追求は形の解釈という形で行われていますが、無理な解釈もかなりあります。

私の目には現代の形の大部分は形骸化してしまい演舞でしかもはや使わない代物に写っています。私自身も自分の稽古で使用する形は松濤館の形の本の一部にすぎません。

形の解釈でなく形自体を変えていかなければ形本来の有用性は見出せないと私は思ってます。

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